寺院と沿革
 良雲山千日寺長性院は安芸の国広島新開段原比治山にある。その昔、信濃の国(長野県)松本生まれの正誉玄齊という僧が諸国行脚の後この地に来た。山も麓で人家はなく静寂な雰囲気に心も澄み渡ってきたので、背負っていた阿弥陀如来様を降ろし、鉦鼓を前に置いて一時間ばかり、この山を見回って帰ってみると、不思議なことに人がいないのに、鉦鼓の音が山や谷に響いていた。
 この地を笈仏有縁の霊地と思い、雨よけの紙を屋根にして、日夜念仏を続けた。毎朝托鉢に出る時、本尊の前に鉦の撞木を置いて行くと、この僧が留守の時でも常に鉦の音が聞こえた。このことは自然に人々に伝わり信者が集まって草庵を作り、玄齊を引き留めた。草庵は栄山庵と呼ばれ、玄齊は千日行を発願し、常念仏を行った。この栄山庵が出来たのは元和三年(一六一七年、今から四百年前)といわれ、この谷が栄山谷とも千日谷とも呼ばれるようになった。しかし玄齊は承応元年十月十五日の朝、草庵を出て行き、再び帰って来ず、亡くなった所もわからない。弟子の善誉が栄山庵をつぎ、その後、紀伊の国(和歌山県)小倉生まれで、禿翁の弟子である白誉という僧がこの庵に住んだ。このとき浅野藩寺西将監利之の妻、法名「長性院殿岳誉法春大姉」が銀三十貫目を寄付して堂塔が建立され、初めて良雲山栄山寺長性院と呼ばれるようになった。
 このことによって、当院三世白誉を中興開山とし長性院殿を開基とする。
仁王像縁起
 長性院鐘楼門の仁王像「阿形・吽形」二体は、当山霊園に育つ、樹齢約三百年の楠の大木 (原爆被爆の木)を用いて、檀徒中西平三氏が、平成七年より四年の歳月をかけて、一刀三礼の称名念佛至誠の心で原爆犠牲者供養の為・世界恒久平和実現の為、制作造立せられた。それは、作者が幼少の頃、原爆の体験にあい、命からがら長性院にたどり着き、他の人々も長性院の参道でもがき苦しむ光景を目のあたりにしたという強烈な光景が深く作者の心の中に刻み込まれていたからであり、二度とこんな過ちは犯してはならないという願いから造立されたのである。
 よって当山の仁王像は、御手に経巻筒を捧持し、佛法守護と当山堂宇の守護、我等一切衆生を守る守護神である仁王の胎内と経巻筒には、檀信徒有縁の人々の写経と願文が奉納されている。
身代わり地蔵尊の由来
 元和三年福島正則候の時代、正誉元齊和尚が諸国巡錫の途上荘厳な鉦鼓の妙音をたよりに近づかれたところ、この地蔵さまが安置されていたのでこの地こそ正しく仏有縁の霊地なりと感得し発願して当山を開かれた。当時開山の仏縁を賜ったこの霊験あらたかなお地蔵さまを、一般庶民の間で信仰するもの非常に多く、中でも松川町に住む大門という苗字の女人は、殊のほか信心堅固な篤信者として日夜お参りを欠かしたことはなかった。
 その頃、この比治山一帯はとても静寂なところであり、武士たちの試し切りに最適な場所であった。そうした或る夜、一人の侍が一刀の切れ味を試そうと思いお地蔵さまのお参りを終えて帰路を急ぐこの女人を、山門で待ち伏せし一太刀のもとに女人の右肩より、左胸にかけて袈裟懸けに斬りつけたのである。ところが、その侍がその場に見たものは、斬ったはずの女人の体ではなく、袈裟懸けに斬られたお地蔵さまが真二つに斬られて横たわっておられた。侍はこの奇瑞を目の当たりにして今更ながら、このお地蔵さまがもつ不可思議な霊験に驚きめざめてその場で黒髪を落とし、菩提心を発して元齊和尚の弟子となった。
 その後、罪障消滅のために諸国を遍歴遊行して、幾年を経て当山第二世善誉上人弘願和尚として、その法燈を受け継がれたのである。この地蔵尊は衆生の苦難を身代わりとなって救うというので信者を集めた。特に胃腸病に苦しむ者にとっては、一心に祈願をこめてお念仏をお称えすれば、その病苦より逃れ治る不思議なご利益もある。合掌